無伴奏シャコンヌ

 この用語を初めて目にしたのは、たまたまCS放送を見ていたときに放送された映画のタイトルでした。元ネタはバッハの無伴奏パルティータ2番の終曲「シャコンヌ」から来ています。
 ところでこの「無伴奏」という用語に疑問を感じる人もいるかもしれませんので、補足説明しておきます。当時、ヴァイオリンやチェロ等の弦楽器は常に伴奏(鍵盤楽器等)を伴うのが一般的でした。なので、単に「ヴァイオリンソナタ」といえば、「ヴァイオリン+伴奏(鍵盤楽器)」という楽器編成が常識だったのです。この反意語として「無伴奏」という言葉が付き、文字通り「伴奏無しでその楽器一本で」という意味になります。
 したがって、昔はわざわざヴァイオリンソロの曲に「無伴奏」という用語を付けていたわけです。

 さて、話はシャコンヌに戻しましょう。この曲の魅力に取り付かれたのは他でもなく、上に挙げた映画の最後に「ノーカット」で演奏するシーン(音は本物のヴァイオリン奏者の吹き替えだが…)を見たときでした。このシーンを最後にエンドロールが流れるというなんともB級らしい終わり方ですが、とにかくこのシーンは衝撃的でした。
 シャコンヌは15分近くの大曲で、3部構成になっています。初めと最後の部分は全体的に短調で統一され、中間部分が長調に陽転しています。バッハの時代を考えると音楽に物語的要素はまったく無いのですが、音楽を通してバッハが何を伝えたかったのかは本人のみぞ知るといった感じでしょうか。

 もし自分がヴァイオリン弾きだったら、夜の駅前で一人ひっそりと弾いてみたいものです。ちょうど映画では地下鉄の駅だったなぁ…。そういえば全然関係ない話ですが、先日有楽町に行ったとき、昼間でしたが、街頭で和服を着た人がヴァイオリンを演奏していました。立ち止まって聴いていたかったのですが、連れがいたからそのまま通り過ぎた記憶があります。

 ところでピアノスキーの私として外せないのが、ブソーニ編曲版の「シャコンヌ」です。ピアノを知り尽くした天才が、偉大なるバッハの大曲を手がけたわけで、この編曲を聴くだけで、ピアノの書法を学べるような気がします。とある人は「これはすでにバッハの曲じゃない」と評したのですが、私もそう思います。でも、私はこう言うでしょう「これはブソーニの傑作だ」と。ヴァイオリンとピアノでは発音機構が違うので、それぞれを最大限に生かした作品が同次元に存在するわけがないと私は考えます。そういう意味でもブソーニのシャコンヌは別物なのです。
 実際に2つを聞き比べると良くわかります。原曲(ヴァイオリン)とブソーニ版(ピアノ)で受け取り方が全然違うからです。これは単に「音の違い」だけではないでしょう。逆に言えば、「音が違う」だけにしか違いがない編曲は、はっきり言って「手抜き」だと思います*1。編曲に使う楽器の特性を利用するか、原曲の構成を独自に変えるかのどちらかをやらない限り、編曲作品としての評価は低くなると思っています。音だけ変えようと思うのなら現代では「計算機」がやってくれますし…*2
 このような観点でブソーニ版を聴いてみると、ピアノの弱点でもある「音の減衰」までも利用していることがわかります。それは中盤の部分に現れます。中盤でもピアニスティックな部分、すなわち技巧的なパッセージが続きます。技巧的で過激な音響からだんだんと落ち着いていき、行き着く果ては「和音だけ」になる部分。コラール風に響くこの部分が言葉にできない何かを感じます。和音と和音の間の空間に、どんなメッセージが込められているのか。ブソーニはピアノの「自然減衰」という特徴をあえてここで目立たせているのではないか、と私は思います。ちょうど、部屋の中でいろんな音が鳴っていて突然沈黙になったときの状況に近いかと思います。
 この編曲でもう一つのポイントとして、音域の広さを挙げておきます。当然、ヴァイオリンとピアノでは音域の広さが違います。ブソーニはピアノの低音部分を用いることによって、原曲にはない音の厚みを表現しています。もしかしたら、この曲をベーゼンドルファーのインペリアルピアノ(97鍵盤)で豪快に弾いたら恐ろしいことになりそうですね。

*1:典型的な例を挙げると「オルゴールアレンジ」で、「オルゴールアレンジ自動生成ソフトが出回っているのでは?」と思うぐらいです。

*2:同人音楽の方に目を向けるとそのテのアレンジじゃないかと思われるピアノアレンジCDが多くなっているような気がします。もしかして曲は機械に作らせて、演奏だけ自分でやってない?(汗